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最高裁判所第三小法廷 昭和35年(オ)1359号 判決 1961年12月05日

上告人 松下今朝敏

被上告人 国

国代理人 青木義人 外一名

主文

原判決を破棄する。

本件訴を却下する。

訴訟の総費用は上告人の負担とする。

理由

職権をもつて本訴の適否について調査する。木訴請求の趣旨は、長野地方裁判所松本支部において上告人(原告)を被告人とする刑事事件につき昭和二五年三月三一日言渡され昭和二三年五月二四日確定した「被告人松下今朝敏を死刑に処する」旨の判決の執行は被上告人(被告)から現行の死刑執行方法をもつて執行される義務を原告が負わないことを確認することの判決を求めるというにある。

しかし、およそ死刑を言い渡す判決は、裁判所が法律に従い当該事件につき国が具体的に現行法所定の執行機関及び死刑執行方法により当該被告人に対し死刑を執行すべき権利を有し被告人はこれを甘受すべき義務(ないし受けるほかない法律関係)あることを当然予定し肯定した上死刑に処すべきことを命ずる趣旨のものであることは多言を要しないところであつて、若し所論のように現在の法令による執行方法が違法であると主張するのであれば、かかる執行方法を前提とする刑事判決については刑訴法所定の方法によつて争うべく、このことなく、もしくはこのことのほかに更に行政事件訴訟特例法によつて死刑執行方法を争うのは、結局、実質上において、行政事件訴訟をもつて刑事判決の取消変更を求めることに帰し、かかる訴訟は許されないものといわなければならない。それゆえ本訴は不適法であつて、これを適法として原判決は違法で破棄を免れない。

よつて、民訴四〇八条、九六条、八九条に従い、裁判官全員のの一致で、主文のとおり判決する。

(裁判官 垂水克己 河村又介 高橋潔 石坂修一 五鬼上堅磐)

上告代理人向江璋悦 同安西義明の上告理由

第一点原判決は憲法第三十一条「何人も法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない」との規定の適用を誤つたか又はその解釈を誤り、結局現行死刑執行法が右憲法の条規にいう法定手続なくして執行せられていることを是認した憲法の違背が存する。

一、上告人の主張は大略次のとおりである。

(1)  憲法第三十一条にいう「法律の定める手続」とは国家が判決を言渡すまでの手続のみならず、刑罰執行手続まで含むものである。

(2)  而して死刑執行については、刑法第十一条、監獄法第七十一条、同七十二条等により、「絞首、刑場、絞縄」の点のみ示されており、その執行方法、形式についての具体的な規定を欠くのである。

(3)  紋首といえども、その方法は多種であり、(イ)明治三年十二月二十日新律綱領による懸錘式紋首刑、(ロ)明治六年二月二十日太政官布告第六号による屋上絞架式紋首刑、(ハ)現行の地下絞架式絞首刑、(ニ)かつて満州で行われた一本の小棒と一本の縄により首をしめ上げる絞首刑、等の方法があり又極端ないい方をすれば死刑執行官がヒモ、手拭等で任意になす絞殺ということも可能である。

(4)  以上の如く、現行死刑の具体的執行方法は、法律によつて定められていないのである。前掲の絞首という定めだけではその内容が多岐にわたり特定しないのである。元来憲法第三十一条によつて、法律の定める手続」によらなければ刑の執行をなしえないとしたのは執行手続を厳正明確化し、よつて執行者の恣意による執行を防止し又残虐な執行方法におちいることなきを担保せん為であることは明らかである。右は憲法第十三条、同第三十六条の趣旨からみても充分推認しうるところである。

従つて特に最重刑たる死刑の執行については、法律によつてその執行方法が一定され二義を許さない方法たるべきこと、方法が残虐であつてはならないこと、等の要件を具備することを必要とするのであり、これが憲法第三十一条の要請なのである。

(5)  しかし現行死刑執行方法についてはただ単に「絞首」等のみの規定が存し、その内容を特定するに足りる法律なく従つて現行死刑執行方法は憲法第三十一条の要請に反し、法律によらず刑の執行をなすものであり、従つて右憲法に反するものといわなければならない。よつて上告人は右憲法に反する死刑執行方法を以つて、執行をうける義務を有しないのである。

二、右の如き主張に対し、原判決は、「刑罰の執行を法律によるべきこととしているのは(中略)刑罰の実行は直接人の生命自由、財産等を害する重要な事項であるが故に、これを執行者の恣意にまかせず、必要最少限度に止め、かつそれが残虐な方法におちいることのないよう担保するにあるものというべきである。従つて法律においてこれらの諸点が確保されている限り、右憲法の要請をみたすものというべきである」と上告人の主張をほぼ肯定した後「前記法律の諸規定をみるにそこにおいては死刑の執行の命令権者(中略)執行の方法(中略)等が法律で定められ、とくに執行の中心をなす執行の方法すなわち生命剥奪の手段についてはそれが絞首であつてその内容が何であるかは後に見るとおりであるとしても、少なくともそれが斬殺、銃殺その他の手段と区別されるものであるゆえんが規定されていること明らかであり、これによれば前記の諸点はこれを担保するに足りるものということができる」とし、結局憲法第三十一条にいう法律の定める手続は存在するとなしているのである。

三、しかしながら原判決の、死刑執行方法について憲法第三十一条の要請が現行法律によつて充足せられているとの見解には到底賛同しがたいのである。その理由は次の通りである。

(1)  憲法第三十一条が刑の執行を法律によるべしとなした由縁のものは、第一に執行者の恣意にまかせず、従つてその執行方法が法律によつて定められ、執行者によつて任意にかえられることのないよう担保するためである。

しかし現行法律はただ「絞首」とのみ規定しているにとどまりその具体的方法を説示しているのである。もとより細部のすべてを法律を以つて規定しなければならぬというのではない。前記要件を具備するに足りる基本的事項は法律によらなければならずそれが憲法第三十一条の定めである。

ところが現行法律の「絞首等という定めを以つて前記要件を充足しうるのであろうか、答は否である。現に原判決は新律綱領、改定律令、太政官布告第六五号における死刑執行の方法が変遷をとげたことをみとめ、しかも太政官布告第六五号は法律ではなく、執行上の準則を定めた命令であるとしているのである。即ち執行上の準則という太政官布告第六号によつて、新律綱領における執行方法は変更せられているのである。前記太政官布告が執行上の準則であるかぎり今後においても、前記改変と同様法律の手続によらず、執行者、施政者が所謂紋首と称する方法にその内容を事実上又は規程上変更しうるのである。

しかも別に法律によつて「絞首」の何たるかが定められておらない現在、右「執行上の準則」の内容的変更は、ただちに絞首刑の内容的変更となつてくるのである。唯単なる準則の法律上又は事実上の変更だけにとどまらず、死刑の具体的執行方法の変更をきたすのである。別に執行方法の基本部分が法律で定められ、その実施の為細部の手続が準則にもられているという関係なら別であるが、本件の場合には判決のいう所謂準則が死刑執行方法の内容を決定しており、その変更は又方法の変更となるのである。このことは前記新律綱領から太政官布告第六五号によつて死刑執行方法が変更せられたということ、更に右布告第六五号が現在事実上改変せられているということに徴しても明らかなことである。

従つて現在の法制下においては,憲法第三十一条による、刑の執行が執行者、施政者の恣意による支配をうけないということの保障は何らないのである。しかるに原判決は現行法律の規定を以つて前記憲法の要請は充足せられていると解したのは正に憲法第三十一条の適用を誤つたものといわねばならない。

(2)  次に憲法第三十一条は死刑執行手続が法律によつて二義を許すことなきよう特定せられ、厳正明確化されていることを要請しているのである。

もし法律に定めた執行方法が幾通りの方法にも解しえられるようなことでは、執行方法を法律で定めた意義は失われるのである。蓋し執行者、施政者は時と人と所により、自己に都合のよい執行方法をとることもでき、あるいは方法が異なるため場合によつては残虐な方法におちいることなしとしがたいからである。

ところで刑法第十一条の「絞首」という死刑執行方法には前述した通りいく通りもの方法があり、法文上いかなる執行方法を定めたか明らかではないのである。そして現行法制下では前述の如く、執行者の任意の意思によつて改変しうる余地が存するのである。従つて執行方法の数方法ある紋首刑の場合にはその執行方法の基本的部分だけは之を法律を以つて定め以つて他と区別する必要があるのであり、それが憲法第三十一条の要請なのである。従つて単に斬首銃殺等と区別しうる程度の「絞首」という方法が定条られておるからといつて、「死刑執行方法に関し憲法三一条にいう法律の定める手続は存在する」となすことは到底できないのである。このようなアイマイな概念を以つて定められた死刑執行方法は事実上定められないに等しいのであり不充分なのである。

しかるに原判決は現行死刑執行につき憲法第三一条の要請を充足しうるに足る法律が存在するから現行死刑執行方法は憲法第三十一条に反しないとなしたのは、正に憲法第三十一条の解釈を誤つたものといわねばならないのである。

(3)  更に憲法第三十一条が手続法定を定めたのは、執行手続の残虐性防止の趣旨に由来するものであることは明らかである。

ところで前記の如く、具体的な執行方法が「準則」という形で定められている現行法制下においては、「準則」の事実上の変更(現行死刑執行方法が太政官布告第六五号に定める方法によつていないことは原判決もみとめるところである)又は規程上の変更が、法律の手続によらずして可能なのである。死刑の執行という地球上の諸制度のなでももつとも重要と考えられる制度が、法律の手続によらずして事実上改変せられうるという一事をとつてみても残虐刑禁止の思想に由来する憲法第三十一条の規定に反するものであることは明らかである。

原判決は「死刑の執行の命令権者、執行指揮者、執行の時期、場所及立会人、執行の方法及その記録作成」が法律で定められているから残虐にならないというかのようであるが、命令権者は法務大臣であり執行指揮者は検事であり、立会人は監獄の長である。原判決はこれらの人が関与しているから残虐にならないとでも考えているのであろうか。之らの人が関与しているということだけで残虐刑にならないという保障はどこにもないのである。

又斬首等と区別せられる「絞首、絞縄」を定めただけで残虐にならないということもいいえないのである。やり方又は用いる器具の種類、形状等によつては残虐になる可能性は充分あるからである。

四、以上の諸点よりして、原判決には憲法第三十一条の解釈を誤つたか、又はその適用を誤つたか、いずれにせよ憲法の違背があることは明らかであるのでその破棄を求める次第である。

第二点原判決は、明治六年太政官布告第六五号の性質について誤解した違背があり、右は判決に影響を及ぼすこと明らかであるのでその破棄を求める。

一、原判決は、右布告は「執行者の実際に守るべき執行上の準則を定めた命令に過ぎない。法律をもつて規定すべき事項に関する規定ではないから右布告が現になお効力を有するか否、現行の方法がそれと異なるか否は、現行の執行方法が違法であるかどうかを決する上には関係がない」となしているのである。

二、しかしながら右布告は「単なる執行上の準則」ではない。

蓋し右布告の存在していた当時以後今日まで、他に死刑執行方法を定めた法令は、旧刑法・刑法にある「絞首」の言葉外には全くないのである。そして絞首なる方法が必ずしも明確でなく又前記憲法第三一条の要請からみて、絞首と称せられる方法のうち、いかなる方法によるものであるかを定める事項は正に法律事項といわねばならないのである。従つて右布告の内容は法律事項を規定したものであり、法律と同一に取扱われるべきものである。もつとも右布告が執行上の準則として事項を併せ定めていたとしても之を以つて右布告の法律としての性格に、異動を生ぜしめることはないのである。

右布告以外に死刑執行の方法を定めた別の法令が存在するなら、右布告は全くの準則的命令とも解しえようが、右布告以外に重要なるべき「絞首」の内容を定めたものはなく、従つて布告第六五号は、法律事項を規定したものなのであり、単なる準則とだけ解することはできないのである。

三、而して右布告は、「昭和二二年四月十八日法律第七二号日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力等に関する法律」第一条の四、中に掲記せられず、右法律第一条「日本国憲法施行の際に効力を有する命令の規定で、法律を以て規定すべき事項を規定するものは、昭和二十二年十二月三十一日まで法律と同一の効力を有するものとする」との規定により、その後何らの処置のなかつた右布告は結局右日時を以つて失効したものといわなければならないのである。

四、仮りに右布告が有効に存続するとするならば、現行死刑執行方法は右布告に反する違法のものといわねばならないのである。原判決も「仮りになお効力を有するものとしても、それと現行の方法とは完全に同一のものではないこと、右太政官布告を現行のものの如く改めた適法な改正手続のみるべきもののないことは弁論の全趣旨に徴し当事者間に争いないものというべきであつて、よし(中略)基本的な機構ないし用法においては変るところはないとしても、少なくとも右太政官布告が規定したところと異なる限度において現在その拠るべき準則を欠いていることは否定し得ない(中略)現行の方法にして是認さるべき限り、よろしくこれに副うべき明確な準則を定立すべきことの妥当なるは明らかである」としているところからも明瞭である。

五、以上の如く太政官布告第六五号は法律であり、もし有効とせば現行死刑執行方法は違法のものであるにかかわらず、右布告を法律にあらずして、執行上の準則を定めた命令と解した原判決は、結局判決に影響を及ぼすことは明らかな違背がありよつて破棄せらるべきものである。

第三点原判決は刑法第十一条にいう「絞首」の解釈を誤り、よつて現行死刑執行方法が絞首の方法によつていないにも拘らず之を絞首なりとした違背が存する。

一、原判決は「現行刑法にいう絞首は、新律綱領にいう首を絞つて命をおわらしめることに発し、改定律例、旧刑法を通じて伝統的に使用せられた絞ないし絞首と同義であつて、その意味するところの本旨が絞縄を受刑者の首にほどこしこれを緊縛することによつて窒息死にいたらしめる方法を指すものであることは明らかである」「これを要するに刑法一一条一項にいう絞首とは、上記監獄法七二条にいう絞縄なる字句と相まつて、受刑者の首に縄を施しこれを緊縛することによつて窒息死に至らしめる執行方法をいうものと解することができるのであつて、右緊縛につき受刑者の体重が利用されるか否かは問わないものと解すべきである」となしているのである。

二(1)  現行死刑の執行方法は、受刑者の首に絞縄を施し、之を受刑者の体重とその落下加速度によつて緊縛して窒息死にいたらしめるものであることは、原判決認定の通りである。そして又法医学上の絞首と総首、更には一般世上でいわれる「首しめ」と「首吊り」の差は、右緊縛が、人の体重以外の力によつて行なわれるか、あるいは人の体重を利用して行なわれるかにあることも、判示認定の通りである。

(2)  そこで問題は、刑法第十一条の「絞首」がいかなる意味を有するかという点であるが、法律上の概念はその言葉のもつ現在の客観的意義によつてのみ理解せられるべきものなのである。そしてその客観的意義を明らかにする為、科学的な見解を、あるいは歴史的な意義を知ることも必要になつてくるのである。

(3)  そこでまず歴史的意義についてであるが、明治三年十二月二日施行の「新律綱領」における死刑執行方法は、上告人(原告)提出第二準備書面第一、二記載の通り、自己の体重を利用して絞縄を緊縛するという方法ではなく十三貫の懸錘による緊縛であり、所謂首しめに当ることは明らかである。即ち死刑執行方法としては当初所謂首しめによる方法がとられ之が「絞」という言葉を以つてよばれていたのである。このことは、右「新律綱領」前には「絞」の文字なく、(明治元年五月頃の仮刑時代には、焚等の方法が存するのみであつて、絞はない)右新律綱領」においてはじめて「凡絞ハ其首ヲ絞リ」あるいは「絞、斬二死ノ外」等絞の字が見えてきているのである。従つて死刑執行方法としての絞は、当初自己の体重によらずして絞縄を緊縛する方法をさしていたことは明らかである。

そして右の方法が法医学上所謂絞首に属することも明らかであり、又世上いうところの「首しめ」に当ることも見やすきところである。しかしてみれば刑法上用いられる「絞」とは、判決のいう如く、「首をしめる」という意味ではなく自己の体重以外の力によつて絞縄を緊縛する方法をさしていることは明らかであり、之が法医学上からも又社会通念上からもその結論を承認せられる意義なのである。

ところが、その後太政官布告第六五号により執行方法が改変せられ、縊刑であるべき執行方法が総刑にかえられるにいたつたのである。従つて当時として「絞」ではないのにかかわらず之が便宜上あるいは正当な理解なく誤つて絞という文字を以つて表現せられ旧刑法等に引つがれていつたのである。してみれば歴史的には「絞」は、「新律綱領」における執行方法をさし、法医学上も、社会通念上もそれが是認せられるところである。新律綱領以後の死刑執行方法を誤つて又は便宜的に絞という文字で表現したからといつて、それをもつて、右方法が絞の概念内容となることはできないのである。原判決は、新律綱領と太政官布告第六五号との執行方法中共同概念である「首に縄をほどこして緊縛する」ということを以つて、ただちに刑法上の「絞首」の意義であるとなしているが、あまりに早計といわねばならない。

(4)  以上の通りの次第であるから、刑法第十一条にいう絞首の客観的意義は歴史的にも法医学的にも、正に「新律綱領」の執行方法である「首しめ」を指していることは明らかであり、判決のいう如く「多年この方法がとられて怪しまれなかつたからとて、事は死刑の執行というきわめて限局された分野の問題であつて、大方の注目するところとならなかつたに止まり、これをもつて一の慣習法が成立しているとみるのは相当でない」のである。

即ち現行死刑執行方法は刑法第十一条に定める方法と異なる方法によつて実施せられておるのであり違法な執行なのである。もし「現行の方法にして是認さるべき限り、よろしくこれに副うべき明確な」法律を以つてその施行方法を定むべきである。これなくしてなしている現行死刑執行方法は、刑法第十一条に反するものといわざるを得ないのである。

三、よつて原判決には、刑法第十一条の絞首の概念を誤解し、現行方法が法律のいう絞首と異なる方法によつてなされていることを看過した違法が存するので、その破棄を求める次第である。

以上

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